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地紙 厚
サイコム・ブレインズ株式会社
執行役員
東南アジアにおける代表的な工業国であり、多くの日系企業が進出しているタイ。街には日本食のレストランがたくさんあり、日本のポップカルチャーの影響から、第二外国語として日本語を学習する若者も多いようです。
皆さんはタイという国、あるいはタイ人に対してどのような印象を持っていますか?「微笑みの国」「親日の国」「タイ人は物腰が柔らかで親しみやすい」といったイメージを抱く人も多いのではないでしょうか。しかし、実際にタイに赴任している日本人の多くが、タイ人スタッフに対するマネジメントやコミュニケーションが上手くいかず、様々な悩みやストレスを抱えています。
タイ人とはどのような人々なのか? タイ人とのビジネスを円滑に進めるためにはどうしたらよいのか? タイに20年以上滞在し、現在はサイコム・ブレインズがタイで提供している「日・タイ異文化適応トレーニング」の講師を務める河島久枝氏にお話をお聞きします。
社会人になって顕在化した、タイ人との葛藤
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- まずはこのウェブサイトをご覧の方に河島さんのバックグラウンドをご紹介したいのですが、そもそも河島さんはどんなきっかけでタイと関わるようになったのでしょうか?
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- 日本の大学で国際関係学を専攻していたのですが、タイ好きな先生から勧められて旅行で訪れたのが、最初の関わりですね。それ以来、私もタイが好きになって留学したいと思うようになり、チュラロンコーン大学の修士課程に入りました。卒業後はいったん日本に戻りましたが、勉強したことを活かすのであればタイで働いたほうがよいと思って、もう一度タイに行きました。
現在はタイ王国元日本留学生協会が運営する日本語学校のマネジメントをしています。協会では日本とタイの交流イベントやセミナーを開催していますが、その際に日本の大使館や公的機関、商工会議所といった組織との調整も担当しています。
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- これまで20年以上タイで活動されてきて、最初の頃と比べてタイに対する印象とか思いとか、何か変化はありますか?
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- 最初はタイが好きで好きでしょうがなかったのですが、今は「良い所もあるし良くない所もある」「合う所もあるし合わない所もある」という状態です。ただ、学生から社会人になった時に、印象は大きく変わりました。学生の頃はタイが嫌いになることはありませんでしたが、タイ人と一緒に仕事をするようになって、「嫌だな」とか「もういいや」と思うような経験もしました。
私がとても恵まれていたなと思うのは、そのような葛藤を抱えていたときに、学生時代に知り合ったタイ人や日本人の友だちに相談できる環境にあったことですね。それによって「この人たちは、どうしてこんな行動をとるんだろう?」とか、「一緒に働くことが、なぜこんなにやりにくいんだろう?」といったように、疑問やストレスに感じていたことが、その人の性格の問題ではなく「日本とタイの文化の違い」によるものだということに、早い段階で気づくことができました。文化の違いを理解して、自分なりに考えて対応することができるようになって、しだいに仕事がやりやすくなっていきまいした。
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- 相談したり悩みを共有できるお友だちが周りにいたことで、困難を乗り越えることができたわけですね。タイに赴任している日本人の中には、アドバイスをしてくれる人が身近におらず孤軍奮闘している方もたくさんいます。そういう方たちに対して、我々としても何かサポートができればと思います。
「組織の利益」vs「個人の人間関係」……日本人とタイ人の決定的な違い
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- サイコム・ブレインズは2014年にタイに現地法人を設立して、日系企業を中心に人材育成の支援をしています。その中で日本人とタイ人の間のコミュニケーションは主要なテーマの一つですが、河島さんには日本人とタイ人それぞれを対象とした異文化適応トレーニングの講師をお願いしています。実際に講師として活動するようになって、何か新しい発見や気づきはありましたか?
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- 講師として、日本人受講者の方、日本から赴任して来られた方々のお話を伺って、想像以上に大変な思いをされていることがわかりました。彼らは必ずしもタイが好きだから赴任したわけではなく、またタイについて専門的に勉強したわけでもありません。そのような中で、タイ人スタッフが自分の期待通りに動いてくれず、仕事が進まない。一方で日本の本社からはスピードや成果を求められる。精神的に辛くなる人も多いのではないでしょうか。
この問題は、タイ人がなぜそういう行動を取るのか、その理由がわからない限り解決できません。このようなときに、異文化適応トレーニングで学習する「ホフステードの国民文化6次元モデル」が役に立ちます。6次元モデルによって、日本人とタイ人の価値観の違いが数値によって把握できるので、日本人から見たときになぜタイ人が「訳の分からない行動」を取るのか、理解しやすくなります。
- ホフステードの国民文化6次元モデル
- オランダの経営学者・社会人類学者ヘールト・ホフステード氏が提唱した、各国の文化の違いを理解するツール。以下の6つの次元から国民の文化を分析し、各国の平均的傾向を数値化することで、日本を含む各国の相対的位置づけを理解することができる。
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- 1.権力格差に敏感か
- 2.集団主義か個人主義か
- 3.達成、極める、秀でることを重んじる『男性的文化』か、生活の質や弱い者への同情を重んじる『女性的文化』か
- 4.不確実性の回避傾向が高いか
- 5.規範主義(短期志向)か実用主義(長期志向)か
- 6.本能に対して抑制的か享楽的か
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- 仕事における日本人とタイ人の決定的な違い。それは「人間関係に対する考え方」です。タイでは人間関係が一番です。日本人は仕事として指示を受けたら、その指示をした上司、仕事に関わる同僚、あるいは顧客との関係がどうであれ、組織のためにその仕事を遂行しようとします。一方、タイでは人間関係がより重視されるので、「この人のために働こう」という人間関係がなければ、「どうして仕事なのにちゃんとやらないの?」といくら言ってもできません。日本人が欲しい結果を得るには、普段からタイ人と良好な関係を築いて、彼らが動きやすい方法を取ってあげることです。そのためには彼らの価値観や行動原理というものを知る必要があります。
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- 確かにタイの人たちの物事の進め方には、そういった傾向が強いですね。以前、タイの人にイベントをもちかけたとき、その場では「面白いから是非やりましょう!」と言ってくれたのですが、その後まったく進みませんでした。一方で彼らに近しい人を介して頼むと、これが不思議なことに非常にスムーズに事が進みました。
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- それで問題なく進めばよいのですが、たとえば「営業スタッフが個人的に親しいお客さんに対して、会社が赤字になるようなディスカウントをする」といったことも、タイではあり得ることです。そのようなことが起こらないように、上司が部下と緊密な関係を築いておくことも大事ですね。
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- 今のお話は、6次元モデルにおける「集団主義か、個人主義か」という指標に関わる部分ですね。
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- そうですね。日本もタイも集団主義的な傾向がありますが、集団に対する考え方が違います。日本人が重んじるのは組織で、自分が属している組織の利益に与することを重んじます。一方、タイ人が重んじるのは人間関係、「個人と個人のつながり」です。
タイ人の行動は、ある場面では日本人と同じように見えるので安心していると、他の場面では期待とはまったく違った行動を取ることがあります。それを目の当たりにした日本人からすれば「裏切り者」のように感じてしまう。似ているからこそ、違いに気づいたときのショックが大きいんですよね。
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- たとえば赴任する前に日本でタイ人と仕事をするとか、タイ人と個人的な交友関係があるとか、日本人との違いを身をもって体験する機会が少しでもあるとよいのですが、そういう環境にある日本人赴任者は少ないですよね。そういう意味で、6次元モデルの考え方を学習することは、異なる価値観を持った国の人と仕事をするためには欠かせないと思います。
タイ人のモチベーション……競争や成果にどうコミットしてもらうか?
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- 6次元モデルの指標の中でもう一つ、タイ人の仕事に対するスタンスを理解するうえで皆さんに知っていただきたいのが、「男性的文化/女性的文化」に関わる問題だと思うのですが。これも日本人とタイ人とでは、結構な違いがありますよね?
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- そうですね。日本は男性性が高い国で、「競争で一番になること」「成功すること」を重視します。一方、タイは世界で一番女性性が高い国といわれています。競争に勝つことや成功することよりも、「他人に対する思いやり」とか「自分が心地よく生きること」を大切にします。たとえば「社員のモチベーションを喚起したい」といったときに、日系企業の場合は業績の高い社員に対して褒賞を出すことがありますが、それをそのままタイでやっても上手くいきません。
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- 「優秀な営業社員を『今月のナンバーワン』という形で表彰したら、タイ人どうしの関係がギクシャクした」といった話を聞いたことがあります。
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- 表彰すること自体はよいのですが、タイ人は面子を重んじます。なので個人間の競争にしてしまうと、優秀な社員が周りから妬まれたり、いじめられたりして辞めてしまうことがあります。競争をさせるのであれば、彼らにとって心地よいグループを作って、グループ間の競争になるようにした方が上手くいきます。タイの人たちは、自分が大切にしている人のためなら頑張れます。
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- モチベーションの感じ方が、日本人とタイ人では違うわけですね。日本人上司としては、他にどんなことを気をつけたらよいのでしょうか?
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- 日本では、育成の意味も込めて上司が部下に対して厳しく指導したり、ある程度負荷のある難しい仕事にもチャレンジさせます。部下の方も上司の意図を理解して「自分は期待されている」と感じます。しかし、タイでは厳しくすることは「いじめ」と捉えられます。基本的にはあまり負荷をかけず、優しくされることをよしとします。
ただ、ある程度のチャレンジがなければ部下は成長しませんし、企業としても厳しい競争の中で生き残ることはできません。なのでタイ人の部下を持つ上司は、「この仕事ができるようになると、将来的にこんなに良いことが待っているんだよ!」ということを伝えて、なおかつ手取り足取りサポートしてあげることですね。そうすることで部下の方も「私は期待されているんだ。こんなに助けてもらえるなら、やってみよう!」と思うわけです。
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- 日本人とタイ人の違いを理解する。そのうえでタイ人に対して単に迎合するのではなく、チャレンジしてもらう。難しいことですが、まずはタイ人のモチベーションのあり方を理解して、接し方を少し工夫するだけでも変化を起こせるのではないでしょうか。
タイ人は時間を守れない? 日本人はタイ人を見下している? ……お互いが持っている先入観を取り除く
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- 日本人がタイ人の価値観を理解して仕事を円滑に進める、というのはもちろん大切です。一方、そのための前提として、日本人とタイ人がお互いに対して持っている先入観・思い込みに気づいて、それを取り除くことも必要だと思います。河島さんのこれまでのご経験から、先入観の例として具体的にどのようなものがあると思いますか?
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- 日本人がタイ人に対して持つイメージとして必ず出てくるのは、「タイ人は時間を守れない」というものです。結論からいうと、それは違います。たとえば、タイの結婚式やお葬式では、占い師によって式を行う時間が秒の単位まで決められます。そして彼らは必ずその決められた時間通りに式を行います。つまり、タイ人は結婚式やお葬式なら、秒単位できっちり時間を守れるのです。
一方、仕事になると「10時ちょうどから会議開始」は守れない。これは優先順位が違うからです。彼らにとって、結婚式の時間を守ることは「その後の一生に関わる大切なこと」ですが、10時からの会議というのはそうではありません。彼らは必要があると思えば時間を守ることができます。ただ、「時間を守らなければいけない場面」が日本人よりも少ないのです。時間を守ってほしい場合は、それを説明して理解してもらう必要があります。
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- 今のようなお話は、どの日系企業に聞いても必ず出てくる話の一つですよね。反対にタイ人が持っている日本人のイメージとしては、どのようなものがありますか?
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- 一番よく聞くのは、「日本人はタイ人を見下している」というものですね。これを日本人に伝えると「まさか!?」と驚かれます。日本人は外出先では優しい顔をしていても、職場ではブスッと厳しい顔で指示をすることがあります。そのような態度を取られると、タイ人は「嫌われている/見下されている」と感じます。これには理由があって、タイでは「遠い関係より近しい関係の方が大事にされるべき」という考えがあるからです。
また、日本人は「言わなくてもわかるでしょ?」がまかり通る文化の中で生きています。タイ人もそれに近い部分はありますが、日本人と比べると説明の量が必要です。日本人からすれば、タイ人を見下しているつもりはなく、「細かく言わなくても当然わかるだろう」「部下が自分で考えることに意味がある」という思いがあっても、タイ人は「命令だけするのは、私を見下しているから」と感じるのです。
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- 「日本人はタイ人を見下している」と思うタイ人が多いというのは、私も認識していたのですが、理由はそういうことだったんですね。
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- たとえば電車の遅延で会社に遅刻したとき、日本人はまず遅刻したことを謝りますが、タイ人はまず理由から話します。謝らないのは、「電車が遅れたのは、天の采配によって起きたことで、自分が悪いわけではない」と考えているからです。だからこそ最初に理由を話すのですが、日本人はそれを聞こうとせず、「どうして先に謝らないんだ!」となる。これも、タイ人にとっては「理由を聞こうともしないのは、バカにしているから」と感じるところですね。
日本人とタイ人のどちらかが悪い、というわけではありません。これは、6次元モデルでいうところの「不確実性を回避する傾向」の違いによる問題です。日本人は先を見通して不測の事態に備えますが、タイ人の場合は、一応見通しはするけれど、その場で臨機応変に対応するのがよいとされています。何か起こったときにどう対応するかが大切なので、「それが起こったのは自分のせいではない。でも私はこんなふうに対応しました」と説明したいわけです。
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- これまでのお話をうかがうと、日本人赴任者にとってタイ人のマネジメントは簡単ではないことがよくわかります。一方で、そうしたマネジメントの課題を解決できない企業は、仮に優秀な人材を採用できてもリテンションが難しい、ということですね。
タイは今や東南アジア屈指の工業国ですが、日本と比べて「企業の組織の中で働く」ということが、それほど根づいていない社会といえます。そこではやはり、日常レベルでのコミュニケーションも含めて「寛容さ」というか、ハンドルの遊びのようなものがなければ、お互いにすごく息苦しくなってしまいます。大切なパートナーであるタイという国、そしてタイ人と良好な関係を続けていくためにも、日本企業にとって「寛容さを持つ」という視点は非常に大切なのではないでしょうか?
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- そうですね。私はタイに20年以上いますが、それでもタイ人と仕事をする中で、「え? なんでこうなるの?」ということが日々起こります。落とし穴は一つではなく、一つ飛び越えても、そこには今まで見えなかった穴があります。でも、一つ飛び越えると見えるものが全然違いますし、「ここに原因があるんじゃないか?」と考えて、解決するために何か一つ試してみると、相手との関係が変わります。一つひとつ試しながら前に進めば、タイ人と必ず良い関係を作ることができますし、仕事もしやすくなっていくはずです。
一方で、いくら日本人赴任者が一人で頑張っても、それだけでは対応しきれないこともたくさんあります。6次元モデルの指標でいうと、タイの人たちは「権力格差」に敏感です。なので「日本の本社は、赴任者をこれだけ認めている」ということをタイ人に理解してもらえれば、赴任者はかなり活動しやすくなります。できれば会社として、タイの人たちの価値観も取り入れたシステムを作って、日本人赴任者の方たちをサポートしてあげてほしいと思います。